高冷地に加えて急傾斜地帯の芋井地区は、きびしい自然条件下にあった。入山村上ノ平組では酒井忠勝領のとき、九人の欠落(かけおち)百姓があって一五五石余が荒地になっていた。元和(げんな)八年(一六二二)に新領主となった真田信之は、欠落百姓の分を残りの農民に負担させたので、残った百姓も翌九年に欠け落ちしてしまった。藩では一五五石分の年貢諸役を免除して還住(げんじゅう)を申しつけたが、それでも寛永(かんえい)六年(一六二九)には、入山村のうち霜久保・長久保・馬場の三集落は欠所となった。藩では以後「薄地困窮(はくちこんきゅう)の村」への「お手当て」として例年年貢を引き、小役を半分免除した。文政(ぶんせい)十年(一八二七)になって、藩はその援助を打ち切ったが、嘆願によって小役は従来どおり半分免除された。
上ヶ屋村の京田組も「飯綱山つづきにあり、霧下の場所なので作物の実のりが悪い」として諸役を免除され、元禄(げんろく)年間(一六八八~一七〇四)からは郡役三人分免除となったが、文政七年に打ち切られた。
飯綱高原に近い村々では野獣の害も多く、入山村では宝永(ほうえい)五年(一七〇八)九月に奉行所へ鹿除(ししよけ)土手普請を願いでている。「鹿の出口へ小屋を作り、毎晩詰めて番をしているが、一群が五〇匹・一〇〇匹も出てきて作物を荒らすので百姓が立ち行きがたい。どうか見分をし、他村の人足も加えて土手普請をお願いしたい」という趣旨である。広瀬村でも、寛保(かんぽう)四年(一七四四)の鹿子(かのこ)打ちの費用が、切米・煙硝(えんしょう)・火薬・鉛・硫黄(いおう)代など五貫六〇二文におよんでいる。また、寛政(かんせい)十年(一七九八)には、犬飼組では猪(いのしし)・鹿・猿の害が多く、狩人の給金もかさむという理由で年貢の差し引きを願いでている。築造年代は不明であるが、猪(しし)土手の遺構は現在も戸隠村境の銚子口から高原の南辺にかけて残っている。