麓原入会山

775 ~ 776

飯綱山麓の原山(麓原(ふもとばら))および小角中山(こかどなかやま)は、幅下七ヵ村と呼ばれる入山・広瀬・上ヶ屋・桜・泉平・鑪(たたら)・茂菅(もすげ)の秣刈(まぐさかり)入会地になっており、上ヶ屋村の中沢氏が原山の肝煎(きもいり)であった。広さは一三一五町余で、大部分は「樹木なく、ただ茅草を生ずるのみ」(『町村誌』)という状況だった。また、七ヵ村以外の善光寺周辺の村々も山手籾を払って薪などを採っていた。慶安(けいあん)二年(一六四九)の「村々籾子(もみこ)取集帳」によると、その徴収範囲は、妻科・栗田・問御所・腰・北中御所・七瀬・権堂・市・南俣(みなみまた)・箱清水・下千田・上千田・荒木・横沢・中御所の一五ヵ村であった。

 延宝(えんぽう)七年(一六七九)、七ヵ村では、①刈り干し山の口開けは毎年秋相談して決める、②違反者からは一人銭六〇〇文ずつ徴収する、③居屋敷の普請のさいはその村の肝煎から七ヵ村の肝煎へ断わって用材を伐ることなどを取り決めている。

 寛政四年の春、原山は野火のため飯綱山頂の奥社まで焼失してしまったので、七ヵ村では野火番を決めて巡回することにした。毎日の出番の割合は、入山村で二人、上ヶ屋・広瀬の二ヵ村で三人、桜村一人、泉平・鑪・茂菅の三ヵ村で一人、合計七人であった。近代になってからは上ヶ屋村が出役(責任者)となり、他地区からは一、二人交替に参加し、毎年雪解けから梅雨入りまで実施した。

 寛政八年には、入山・広瀬・鑪の三ヵ村が、小角中山を村高に応じて割山にしてくれと主張して山元の上ヶ屋村と争ったが、茂菅村の長左衛門らが仲介して和談となっている。

 七ヵ村入会組合は、明治四年に茂菅村が脱退し、かわって富田村が加入した。入会山はその後官有地となり、のちに組合共有地として払い下げられ、同四十四年芋井村有地となったが、長野市への合併のさいに移管された。