二 飯綱山論

776 ~ 777

 戸隠領と松代領の旧葛山(かつらやま)七ヵ村とのあいだには、飯綱原の入会地をめぐって争論が絶えず、昭和までつづいた。遠因は、江戸時代のはじめまで上野村(戸隠村上野)も葛山郷のうちに入っていたのが、慶長(けいちょう)十七(一六一二)年に戸隠山神領となって分離したためである。

 寛文(かんぶん)十年(一六七〇)、上野村のものが原山で刈っておいた草を七ヵ村のものが焼き払い、残った草をもち帰ってしまうという事件が起こった。上野村では松代藩へかけあったが、はかばかしい返事がないので、江戸の寺社奉行所へ訴え出た。その結果は、ほぼ上野側の言い分が通った。長禄(ちょうろく)二年(一四五八)に書かれた「戸隠山顕光寺流記(るき)」にある戸隠神社の「四至(しし)」(境界線)が証拠として認められたのである。この結果、飯綱山は戸隠山神領とされ、山頂の飯綱奥社だけが飯綱神領とされた。

 天保(てんぽう)三年(一八三二)、飯綱山神主の仁科氏は山頂の奥社を再建し、参詣者へは鑑札を渡すことにしてそのむねを戸隠方へ通知した。しかし、上野村では自領内へ行くのに鑑札は不要だとして反対し飯綱奥社への参詣を妨害したので、今度は仁科氏が訴え出た。その結果、武田信玄や大久保長安の寄進状が証拠として採用され、七ヵ村側の主張が全面的に認められた。

 この裁許に対しては、俗に松代藩主真田幸貫(ゆきつら)が当時老中だったためだと伝えられるが、一面裁判技術の進歩によるものと考えられている。この訴訟費用として、七ヵ村では二六一両を仁科氏へ助力したが、村々ではその捻出に苦労し、秣場(まぐさば)二〇〇町歩を質入れしている。それでも天保十五年四月の大見分にさいして、鑪(たたら)村では、小村であるうえに飯綱山論のために多分の出費があって苦しいので大見分のための入費・人足を軽減してくれるように代官所へ願いでている。この山論にさいしては、若くして出府した伝田浅右衛門(元治)の活躍が伝えられている。

 しかし、明治以降も芋井村と戸隠村の境界争いはつづき、いくたびか裁判も繰り返された。戦前の陸地測量部の地図には両村の境界線は記入されていない。昭和十二年(一九三七)になってようやく村境が確定し、両村が協定書に調印した。寛文十年から数えて二七七年ぶり、慶長九年から三三三年ぶりであった。