芋井地区の用水堰(せぎ)はほとんどが飯綱山麓(さんろく)の沢水を利用した縦堰(たてせぎ)である。沢沿いの渓流が田用水や集落の飲料水に利用され、広瀬村や上ヶ屋村などでは、渓流を浦谷地池(うらやちいけ)・西谷地池(にしやちいけ)・池の塔池などにため、田用水として利用した。浦谷地池は、文化(ぶんか)十二年(一八一五)に広瀬村で再開発普請をおこなったが、費用の負担割りは上組六割・元組四割であった。
いっぽう、岩戸の念仏寺沢では、田が多いために用水が不足し、一部を裾花(すそばな)川から取水した。岩壁の中腹へ水路をくりぬく難工事で、今も屏風岩の下部にのみで削った水路の跡が残っている。また、東部の尾根上に位置する荒安村は、水利が悪く、水田がない。明治のはじめ、鑪(たたら)村では開田と飲用水確保のため、箱清水村と共同して戸隠の瑪瑙(めのう)沢から堰を引いた。明治三年(一八七〇)の中野騒動の徒刑人(とけいにん)(囚人)を多く使用したので、俗に「徒刑堰」とも呼ばれた。これは遠距離にわたるため漏水が多く失敗したが、のち大正のはじめになって長野市の上水道がここを利用して引水された。