高原の湖沼

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飯綱高原の湖沼のうち芋井地区で田用水に利用しているのは、一ノ倉池・下一ノ倉池で、大座法師池や論電(ろんでん)ヶ谷(や)池の水は、下流の浅河原一〇ヵ村の用水にまわされた。いずれも従来からあった湖沼を利用したもので、大座法師池は延宝(えんぽう)二年(一六七四)に、論電ヶ谷池は宝暦(ほうれき)九年(一七五九)に築造されたと伝えられる。池守は代々上ヶ屋村のものがつとめた。

 大座法師池には「浮き島」と呼ぶ水草がはびこって貯水量を減らしたので、用水組合一〇ヵ村では、安永(あんえい)三年(一七七四)に松代藩から助成金をもらってそれを取り除こうとしたが、水草が予想以上に重くて作業は失敗した。文政(ぶんせい)元年(一八一八)は干ばつであった。上ヶ屋村の池守幸左衛門は浮き島を切っておき、風で岸へ寄ったところを杭につないでおき、樋払(といはら)いのとき乾燥させて引き上げるという方法を考え、浮き島を取り払いたいと願い出ている。

 論電ヶ谷池は昭和十四年(一九三九)四月十五日に決壊して、浅川方面に大きな被害を出したが、のち埋め立てられ、運動場になった。


写真11 軍足池