丘陵ばかりで平地の少ない芋井地区では、江戸時代から全般的に水田は少なかった。明治八年(一八七五)の調査でも地区全体の全耕地に対する水田率は二八パーセントにすぎない。水田は濁り沢沿いの上ヶ屋・桜および達橋(たっぱし)沢沿いの広瀬にみられるが、東南部の新安・泉平・鑪(たたら)などには少ない。そのため善光寺周辺の平坦(へいたん)部への出作りが多かった。上松・三輪・柳町・緑町などの田んぼへ小屋がけし、農繁期にはそこへ寝泊りして農作業をするようすも見られた。昭和二十七年(一九五二)に芋井地区から長野市域への出作りは、一二七世帯・水田五〇町歩におよんでいた。それらの農地が宅地化するにつれ、そこに新居を建てて芋井地区から移住するものも多かった。
明治三十年ごろからしだいに桑園面積が増加し、養蚕が主力となった。しかし、昭和四、五年ごろ、東部の荒安・桜方面ではりんごへの転換が始まり、戦後作付け統制令の解除にともなって、飛躍的に増加した。昭和二十八年には一〇万二〇〇〇貫(三八三トン)、九一八万円、昭和六十年には作付反別は全農地の四九・五パーセントにおよんでいる。ついで野菜は昭和四十五年の九七ヘクタールをピークに減少してはいるが多く、米は三位で麦はまったく作られていない。