麻の栽培

781 ~ 782

芋井地区の麻の栽培は、すでに平安時代末の広瀬荘の年貢に見られる。江戸時代になると松代藩は麻を留買いにし、のち一定の制限をもって自由販売を許した。万治(まんじ)三年(一六六〇)の「山中麻石高・運上留(うんじょうどめ)」によると、麻高は入山村一三一石・広瀬村七五石余・上ヶ屋村四七石余となっており、入山村の麻高は松代領内では、鬼無里(きなさ)村の二一九石余・栃原(とちはら)村の一六一石余についで多かった。入山村の兵右衛門は、麻宿の肝煎(きもいり)を命じられ、四〇石の諸役を免除されていた。

 しかし、標高七〇〇メートル以上の高地で栽培される麻は、とりわけ天候に影響されやすい。安永(あんえい)八年(一七七九)の不作に対して、松代藩では見分して手充(てあて)金を支給したが、その配分をめぐって村内出入りがあった。明治の『町村誌』によると、麻布の産額は上ヶ屋村三〇〇反、広瀬村麻布一八〇疋(ぴき)(三六〇反)・麻苧(まちょ)一二〇〇貫(四・五トン)、入山村三〇〇反であった。いずれも村内で麻布に加工して長野町へ移出した。大正年間(一九一二~二六)にも麻は芋井村の重要な産物で、同六年の産額は「麻三〇〇〇貫」(一一・三トン)と記録されている。しかし、第二次世界大戦後は化学繊維の出現や栽培制限もあって急激に衰え、のちにはたばこ・ホップなどに切りかえられていった。


図1 田畑麻畑別石高(「寛文水帳」などより作成)

 麻の後作にはそばや野菜が多く栽培されたが、「信州景山(かげやま)(影山)大根」の名はすでに正徳(しょうとく)二年(一七一二)刊の『和漢三才図会(さんさいずえ)』に、そば切りの薬味にもっともよいとして推奨されていた。