弘化(こうか)四年(一八四七)三月二十四日夜の善光寺地震は、芋井地区にも大きな被害をもたらした。「むしくら日記」によると、芋井地区の被害は一部資料を欠くが、潰(つぶ)れ家一二〇軒以上、死者約五十人におよんだ。とくに百舌原(もずはら)では戸数一九軒のうち一五軒が大地とともに抜け落ち焼けて、法事にきて泊まっていた四人を含めて九人が死亡し、馬も八頭が死んだ。この土砂は下流の広瀬集落へも押し寄せて数軒を押しつぶし、そのうちの一軒は家族三人全員が土砂の下になり死亡した。広瀬村・入山村の人びとは多く丹羽坂から飯綱原へ避難して小屋掛けをした。
百舌原の人びとは土地を失い、小軍足山へ小屋掛けをし、親類や身寄りを頼った。三月二十七日になって自宅の跡地へ戻って死者を弔い、四月十一日にようやく抜けた場所へ道をつけた。五月十八日に産土神(うぶすながみ)の社地を決め、六月二日にやっと各戸の地割りを決めた。元の集落より上方の平地を定めて家を建てた。そして再建まで、今後五年間は祝儀・不幸は、親子兄弟以外は振舞いをやめることなどを申しあわせた。この場所はその後も何度か地すべりを起こしたので、広瀬では戸隠の九頭竜(くずりゅう)権現を勧請(かんじょう)し、のけどめ権現として祭っている。
鑪(たたら)村では土砂が濁沢川をせき止めて田畑を埋めたため、掘り割って水を流した。また、地震後飲用水路が崩れたため、上ヶ屋・桜・泉平の三ヵ村の用水から分水して水路を作ったが、のちに嘉永(かえい)六年(一八五三)の干ばつのさいは水が不足したため届かず、松代藩へ嘆願し、四ヵ村では時間を区切って利用することとした。