一 寺子屋と師匠

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 『芋井学校の百年』によると、芋井地区における寺子屋の数は二九で、ほぼ各集落一つ以上あった。『長野市の筆塚』には地区の筆塚や彰徳碑が三一基記載されている。建碑の年代は文政(ぶんせい)八年(一八二五)のものをはじめ三基が江戸時代で、他は明治時代のものである。師匠の多くは農民と僧侶で、寺や自家を教場とした。

 山中寮(さんちゅうりょう)は百舌原(もずはら)にあった寺子屋である。師匠の望田(もちだ)八左衛門は江戸旗本の二男で春桃と号し、若くして僧侶となって諸国を行脚し、文化(ぶんか)五年(一八〇八)山中寮に入り、寺子屋の師匠として四二年間を過ごした。門弟は地元の広瀬・扁平をはじめとして、遠く柏原にもおよんだという。

 芋井地区には三面の算額が知られている。葛山(かつらやま)落合神社には、文政元年・天保(てんぽう)十一年(一八四〇)の二面があり、いずれも地元民の奉納である。笹峰天神社にある文久(ぶんきゅう)二年(一八六二)のものには近在のもの三六人の名がある。影山・鑪(たたら)などのほかに茂菅(もすげ)・小鍋などの人も多い。ここには「朝夕和算を楽しみとする」と書かれている。「芸を楽しむ」といわれた和算が、芋井地区でも相当に普及していたようすがうかがわれる。


写真13 笹峯天神の算額

 方向院の住職常田渓国は俳人としても知られ、俳句雑誌『月の都』を主宰し、句集『松の庵』がある。

 明治七年(一八七四)、入山村に広胖(こうはん)学校が、上ヶ屋村には七ヵ村による允升(いんしょう)学校が開校した。同二十五年には芋井西・芋井東の二校制になったが、同四十一年に統合して芋井尋常高等小学校となった。入山(第一)・広瀬(第二)・富田(第三)に分校が置かれていたが、昭和四十一年(一九六六)には第三分校が、同五十一年には第二分校が廃校になった。

 戦後の新学制の実施にともなって、昭和二十三年長野農業(現長野吉田)高等学校の芋井分校が開設されたが、生徒数が減少したために同三十六年に本校へ統合された。