飯綱高原の開拓

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飯綱麓原(ふもとばら)の入会地は明治四十四年(一九一一)に芋井村の所有となって植林などがおこなわれ、大正七~八年(一九一八~一九)ごろから放牧地・試作地・養鯉・鉱泉などに利用するものが次第に増えてきた。昭和四年(一九二九)ごろから農村不況対策にあわせて、上ヶ屋原口・軍足(ぐんだり)原口などで村営による開墾がおこなわれた。芋井小学校では修練道場「清気寮」を開いて農業実習をおこない、上水内(かみみのち)教育会でもここで講習会を開いた。こうして戦前の開墾面積は一三〇町歩(一二九ヘクタール)におよんでいたが、まだ定住するものはなかった。

 戦後は、食糧難による緊急対策の開墾適地として、一部を国で買い上げた。栄峰(えいほう)・麓原などその面積は一八四町歩であった。昭和二十年には栄峰開拓団一九戸が入植し、同二十一年には麓原へ二四戸が入植して開拓した。戦後農地改革によってこれらの農地は全部開放された。昭和二十四年には、鉄鉱泉を借用して芋井小学校の冬期の分室が設置され、翌年には大座法師池ほとりに校舎も新築された。現在は高原野菜の栽培が盛んである。平成二年(一九九〇)の野菜の作付け反別は五二・七ヘクタールで、約二十六パーセントを占め、芋井地区ではりんごについで多い。