飯綱高原は戦前から長野市の裏山の行楽地として利用され、戸隠参道沿線には茶屋があり、大正七年には鉄鉱泉が開かれていた。同七~九年には、八丁原で上水内郡各種学校連合運動会が開かれた。昭和八年に長野商工会議所は、「市民の保健と慰安または観光事業振興の一端に資する」ために一ノ鳥居周辺を公園にし、歩道・四阿(あずまや)・水道などを整備した。土地は芋井村が無償で提供した。また、大座法師池の東には、有志によってスキー場が作られ、簡単なつくりのジャンプ台もあった。同五年ごろには路線バスが走り、同十一年には東京鉄道局主催の団体観光も実施されるようになっていた。
戦後は長野市近郊の行楽地としてにぎわい、路線バスも復活した。昭和三十一年に一帯が上信越国立公園に編入され、同三十九年に戸隠有料道路(バードライン)が開通するにともなって観光開発は一挙に進んだ。同三十八年に別荘分譲地の造成が始まり、同三十四年に飯綱高原スキー場、同四十年にはゴルフ場があいついで開かれ、同四十一年には国民宿舎飯綱高原荘も設置された。同六十一年には、旅館二七、会社の厚生施設一五、学校寮など四、食堂等一〇を数えた。
昭和四十年ごろ、長野市および飯綱高原観光協会によって飯綱の火祭りがおこなわれた。飯綱修験にちなんで、山頂で焚(た)いた護摩(ごま)の火を池畔の中宮に移して火祭りの祈祷(きとう)をおこない、日暮れごろ大座法師池の湖上にかがり火を焚き、花火を打ち上げる。火祭りの行事は行者によっておこなわれたが、のちには飯綱祭り(フェスティバル)の一環として、シンセサイザーの演奏や御神火御舟渡りなどもおこなわれるようになった。