昭和四十年代の農山村の過疎化は、芋井地区もその例外ではなかった。とくに西南部の入山・広瀬地区はいちじるしい。入山地区は昭和四十年以前は県道以外には車の通る道はなく、荷物の運搬もすべて人力か馬に頼っていた。同三十一年失対事業により芋井西部線の整備が着手され、同三十六年県の裾花(すそばな)川総合開発計画による山間地急傾斜地振興事業が進んだ。同三十九年に入山本線が開通し、同四十九年に小市(こいち)-入山線が県道に編入されると、同地区から長野市街地への通勤が可能となったが、いっぽうでは長野市街へ移住するものが多くなり過疎化がすすんだ。同三十七年と平成六年を比較すると、芋井地区全体としては二五パーセントの減少であるが、広瀬・入山は約四十パーセントの減少率である。いっぽう鑪(たたら)では市街地に近いこともあって、やすらぎ団地なども造成されたため、約六十パーセント増加しており、上ヶ屋地区では飯綱高原を含めて横ばい状態である。そのため、昭和四十五年、影山に縫製工場が、同四十八年には桜に電器組立工場ができ、地域内での就業がはかられた。