七二会村の誕生と存続

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七二会地区は松代領に属し、近世はじめ瀬脇(せわき)・黒沼(くろぬま)・五十平(いかだいら)・橋詰(はしづめ)・岩草(いわくさ)・大安寺(だいあんじ)・笹平(ささだいら)の七ヵ村であった。寛永(かんえい)二年(一六二五)黒沼村から坪根(つぼね)村・古間(ふるま)村の二枝村が分立し村役人を別立てする準村となった。また、黒沼村は安永(あんえい)年間(一七七二~八一)か、または文政三年(一八二〇)好字を選んで倉並(くらなみ)村と改称している。

 明治政府は村の分合によって行政区画の確立を目ざした。明治五年(一八七二)の戸籍区では瀬脇・倉並・五十平・橋詰・笹平の村々は小田切地区とともに第五五区、岩草・大安寺の二ヵ村は中条地区とともに第五六区に属した。同七年の大小区制では近世の七ヵ村をもって第二四大区二小区となった。

 明治八年五月、七ヵ村は「村の境界が錯雑しているため合併したい」と県に願いでて、同九年五月三十日合併の布達を受けた。ここに七二会村が誕生した。明治十二年「郡区町村編制法」によって大小区制を廃正し、近隣村の合併が推進された。七二会村は一村をもって上水内(かみみのち)郡に属し、公選戸長(こちょう)に酒井熊二郎が就任した。このころ、七二会村に分離・分村問題があったが実現は無理であった。同十八年には、いくつもの村を連合した「連合戸長役場制」となったが、七二会村は一村をもって維持され初代官選戸長に春日琇次が就任した。また、同二十一年にはわが国の町村を一挙に再編し、自治に堪える新たな町村をつくるため「市制・町村制」が公布され、翌年四月一日施行となった。この再編に各村は諮問(しもん)に対し答議にかなり苦慮した村もあった。七二会村は七五八戸、四三七〇人、反別九六四町歩ということから「現今ノ儘(まま)独立二堪ヘウルヲ以テ独立セシメントス」とし、合併策の該当外であった。このとき隣村に小田切村・日里村・栄村が誕生した。