長野市への編入合併

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昭和二十八年(一九五三)の「町村合併促進法」公布にともない、七二会村は「合併協議会」を設置した。最初小田切村との合併を検討したが、小田切村は翌年に長野市と合併した。つづいて、信里村・更府村の一部との合併を計画したが実現できなかった。そのあいだ、栄村と日里村が合併し中条村となった。県は中条村との合併計画案を示したが、地区懇談会を開いたところ長野市との合併希望が多く、村会は回二十一年九月二十五日長野市との合併を議決、長野市へ合併を申し込んだが時期尚早ということであった。

 昭和三十八年二月二十八日、長野市合併審議会から合併の要請があった。ただちに「七二会村長野市合併審議会」を設け、地区懇談会を開き長野市との合併を確認した。その後、新市の建設計画案の整ったところで、同四十一年七月四日村会は市町村廃置分合を協議し、全会一致可決、その日、長野市と合併調印をした。同年十月十日・十一日、七二会村は村民・各団体代表・来賓を迎え、中学校で閉村式と記念祝賀会を盛大に開催、『七二会村閉村記念誌』を刊行した。同年十月十六日九〇年間存続した「七二会村」は「長野市七二会」となった。


写真1 長野市との合併調印式 左酒井清男村長・宮下正晴助役、右夏目忠雄市長