七二会地区は純農村であった。農業の盛衰がそのまま戸口の増減に反映されやすい。明治期から大正期にかけては養蚕業が盛んになり、戸口も順調に増加してきた。しかし、昭和初期の恐慌と戦争で不振におちいり、戸数八五〇、人口四五〇〇程度で低迷していた。
戦後の昭和二十年代には食糧不足のため農村に居住するものが多くなった。同二十五年(一九五〇)には人口四九〇〇人、同三十年には戸数九〇〇と増加した。しかし、このあたりがピークで、その後経済の高度成長にともなって、若者の農業離れと核家族化が進み、同五十五年には人口三〇〇〇を割ってしまった。いっぽう、戸数は過疎化のわりには古間団地の造成がおこなわれて、およそ九〇〇台をようやく保っている(表1)。
七二会地区は長寿村といわれ、近世末ごろ平出に一一一歳まで生きていた人がいた。大正四年には七〇歳以上の長寿夫婦が一〇組いた。昭和四十年七〇歳以上は二七〇人。平成六年には七〇歳以上は三三七人である。平成八年には蓮(はちす)に一〇七歳の県下一の長寿者がいた。