七二会地区のもっとも古い遺跡は、縄文前期末の平沢遺跡といわれている。『長野県史 考古資料編』によれば遺跡は一七ヵ所。そのうち重複を含めて時代別では縄文時代と平安時代のものがもっとも多く出土している。
縄文時代の遺跡では論地・ミルメ・田尻・中尾・御屋敷・水上・堀端・二十三夜塚・矢口などがある。土器は勝坂式・加曽利(かそり)E式など、今から四〇〇〇~五〇〇〇年前の縄文時代中期のものである。石器では石鏃(せきぞく)・石斧(せきふ)が多く出土している。縄文人にとって陣場平(じんばだいら)の山腹は豊かな木の実があり、獣のいる絶好の地であったわけである。市場の北の堀端(ほりぱた)遺跡には七二会地区では珍しい弥生時代の栗林式と箱清水式土器が発見されている。古墳時代では瀬脇の犀(さい)川左岸の段丘地、柏尾南(かしおみなみ)遺跡に竪穴(たてあな)住居跡五軒と土師器坏(はじきつき)・高坏・坩(つぼ)・甕(かめ)・甑(こしき)などが出土した。小田切地区の馬神(まがみ)古墳と関係があるかもしれないという。七二会地区には古墳はみつかっていない。それだけの豪族がいなかったのであろう。
今から一二〇〇~八〇〇年前の平安時代の遺跡は、田尻・御屋敷・水上・堀端・知足院(ちそくいん)・柏尾南・二十三夜塚・矢口・芝宮・大西原など地区全体に出土している。平出の北にある二十三夜塚遺跡では、一辺五・四メートルの竪穴住居跡の一部が検出された。また、柏尾南遺跡では平安時代前期の住宅跡八軒と土壙(どこう)・溝跡・道路跡なども発掘され土師器坏・甕・須恵器(すえき)坏なども出土した。律令体制の崩壊によって生活域が拡大・拡散し、七二会地区にもその変化があらわれたのかもしれない。