二 荘園

804 ~ 805

 律令政治が弱体化し、平安時代には荘園(私有地)が全国に広まった。七二会地区も平安時代の遺跡が多いところから、このころ、開拓が盛んになり荘園が起こったともいえる。七二会地区に関係する荘園は小河(おがわ)庄(小川荘)と丸栗(わぐり)庄(丸栗荘)である。

 小川荘は、平安時代末期から南北朝期にみられる荘園である。その本拠は現小川村(上水内郡)とされ、荘域は必ずしもはっきりしていない。戸隠神社旧蔵の永仁(えいにん)七年(一二九九)四月二十五日と七月二日の大般若経奥書に、「小河荘の薗日輪寺(そのにちりんじ)で書写した」と記されている。薗日輪寺は長野市小市(こいち)にあったということから、小川荘は安茂里まで広まっていたと考えられ、七二会地区の一部も小川荘域にあったと察せられる。小川荘は、鳥羽上皇の第二皇女の御領であった。また、京都の最勝寺領のときもある。天養(てんよう)二年(一一四五)争いごとが起きたときの院庁下文(くだしぶみ)がある。これが長野県に現存する最古の古文書である。

 丸栗荘は京都の仁和寺(にんなじ)領である。文治(ぶんじ)二年(一一八六)『吾妻鏡』と慶長(けいちょう)九年(一六〇四)『草山年貢帳』の荘名の書き順や信州新町の上条、中条村の中条・下条は荘園の名残であるとされ、七二会や中条の一部は丸栗荘域であったといわれている。