中世に入ると、七二会地区を中心に周辺の村々を春日氏が領有し、春日郷とか春日三郷二一ヵ村ともいわれている。春日氏は鎌倉時代に佐久から移ってきたという。南北朝時代は南朝方に属し、貞治(じょうじ)五年(一三六六)村上・香坂・長沼らと信濃守護小笠原長基と戦って破り、応永(おうえい)七年(一四〇〇)大塔(おおとう)合戦では大文字一揆(あいもんじいっき)に加わり、信濃の守護小笠原長秀と戦っている。戦国時代は村上氏に属し長尾(上杉)方であったが、村上義清が武田に破れて越後に逃亡し、弘治(こうじ)元年(一五五五)川中島の戦いのころには武田方となった。天正(てんしょう)十年(一五八二)武田氏滅亡のあとは上杉景勝に属し、慶長(けいちょう)三年(一五九八)景勝が会津に転封されたとき、春日氏もしたがって米沢へ移っていったという。
七二会地区には春日氏の本城といわれる戸屋(とや)城や屋敷に使ったという篠平(ささだいら)城をはじめ、春日氏にかかわる城・神社・寺院・石造物などがある。しかし、長いあいだの戦乱のうえ一族が移封されたため、正確な史料が乏しく、伝承や推論によるところが多い。