村方三役

814 ~ 815

村には肝煎(きもいり)、組頭、長百姓の村方三役があった。代官の支配のもとで村政について運営、管理をしていた。明和元年(一七六四)六月五十平(いかだいら)村では肝煎を名主と改めた。三役の任免は有力な百姓のなかから世襲(せしゅう)か推薦(すいせん)で決めた。のちに入札(いれふだ)(選挙)となった。寛政(かんせい)四年(一七九二)岩草村では村内を四組に分けて、年番で各組交代で名主をつとめている。また、橋詰村では上組と下組にそれぞれ三役があった。

 元治(げんじ)二年(一八六五)、岩草村の名主引継簿の目録には一〇八点の帳簿と備品がある。その序に「御水帳は一村の魂也、諸帳面は一村の手足也」と書いてある。水帳(検地帳)は年貢徴収の基本書類で名主にとってもっとも大切な書類であった。組頭・長百姓も交代で就任することが多かった。笹平村では天保(てんぽう)八年(一八三七)に、一六人が交代でつとめることにしている。