本百姓と五人組

815 ~ 815

村では本百姓と判下(はんした)百姓の階層があった。本百姓は一人前扱いの百姓で、頭判(かしらばん)または一打(いちうち)百姓ともいった。宝永(ほうえい)七年(一七一〇)松代藩の村数二一一、うち本百姓数六二八九という。七二会地区の本百姓数は瀬脇村一五、坪根村二〇、黒沼村一三、五十平村一九、古間村二一、橋詰村二九、岩草村三六、大安寺村一四、笹平村五四である。また、本百姓には大前・小前の二つの階層がある。松代藩では大前にあたるものをとくに頭立(かしらだち)という。弘化(こうか)元年(一八四四)ごろ岩草村に源治左衛門ほか七人いた。また、村には相互扶助と連帯責任をもった五人組が組織されていた。文久(ぶんきゅう)四年(一八六四)瀬脇村の戸口は九二戸、五三一人、七組の五人組があった。