近世には新田が開発され農業生産が高まると、飼料や肥料が必要になり、広い秣場(まぐさば)を争って求めるようになった。陣場平(じんばだいら)山のうらの上祖山、下祖山の二ヵ村はおもて八ヵ村と入会地(いりあいち)をもっていた。この入会地でおもて八ヵ村がたびたび申し合わせの境を越えて、切刈(きりかり)してくると松代藩に訴えた。坪根村の伊兵衛はおもての橋詰・五十平(いかだいら)・黒沼・坪根・古間・瀬脇・岩草・念仏寺の八ヵ村の名主を集め、相談し越訴(おっそ)した。
貞享五年(一六八八)五月十八日、杉田九左衛門ほか六人による検使見分の結果、おもての八ヵ村が敗訴となった。同年五月二十八日おもての頭取(とうどり)分七人が召し捕らえられ、同年八月十二日橋詰村の新兵衛と坪根村の伊兵衛は徒党を組んで直訴(じきそ)したことから御仕置。残る橋詰村の五兵衛、五十平の六兵衛・七左衛門、黒沼村の忠兵衛・甚兵衛は同年十一月二十四日出牢が許された。
陣場平山の葭雰(よしきり)神社奥に「白山大明神」と刻まれた「伊兵衛睨(にら)みの碑」がある。伊兵衛が処刑されるとき「吾(わ)が霊は山の頂上から相手を睨み山を守る」と遺言したと伝えられている。碑面にわずかに「坪根・黒沼村中」という文字が読みとれ、伊兵衛の戒名「伝誉浄慶(でんよじょうけい)」も彫りこまれているようである。伊兵衛の戒名は「白誉山月貞心居士」と追号され、命日は八月十八日になっている。また、坪根の伊兵衛の屋敷跡には白山大権現碑がある。新兵衛の戒名は「秋山全屯信士」で直系に守られている。
七二会地区では昭和十二年(一九三七)十一月十五日「義民峯村伊兵衛・風間新兵衛、二百五十年祭」、同五十二年五月十一日「二百九十年祭」、同六十三年五月十一日には義民顕彰碑を建立し、「三百年祭」をおこなった。また、記念誌『陣場平山物語』を刊行した。