貞享の山論は尊い人命を犠牲にするという結果になった。この入会山は明治六年(一八七三)地租改正によって、新たに土地調査がおこなわれ、「官有地」となって村民の立ち入りが禁止された。これは所有者種別の「公」を「官」と誤記したからともいわれ、一説には多大な地租徴収をおそれ、だれもその所有権を主張しなかったため官有地に編入されたともいわれている。いずれにせよ関係村民は驚いて民有地に回復する下戻(さげもどし)運動をはじめた。
明治九年に「官有地許借(きょしゃく)願書」、同十三年には入会地の証拠書類として貞享の山論裁許絵図の写し書きを添えて願い出たが認められなかった。その後、十六年、十九年、二十一年と請願したがいずれも却下された。二十四年には特別価格で払い下げを願いでた。三十一年三月には関係村民全員六五一人の署名をもって県知事に請願した。
明治三十二年四月十八日、「国有地森林原野下戻法」が発布された。これによって同年十二月十一日、山年貢上納の事実や旧一〇ヵ村の共有文書など関係証拠書類三十余点を添えて、農商務大臣に下戻申請書を提出した。そのうえ、関係役員は繰り返し上京して陳情したという。同三十六年三月五日ようやくそのかいあって下戻山林原野二八二町四反二四歩(約二百八十二・四ヘクタール)の下戻が認められた。このあいだ、「市制・町村制」の施行により上祖山村・下祖山村は柵村(現戸隠村)に、坪根村・倉並村・五十平村・古間村・橋詰村・瀬脇村・岩草村は七二会村(現長野市)、念仏寺村は日里村(現中条村)となった。同年五月三十日には下戻山林原野の管理費用の負担や収入の分配など公平をはかるため「柵村外二ヶ村組合」を設立した。その後、組合の名称に「林野」をそう入し、町村の合併のたびに名称が変わって、現在は「戸隠村外一市一ヵ村林野組合」といっている。管理者には戸隠村長があたることになっている。
明治三十九年十一月には下戻運動を成しとげたことから、地蔵峠に「下戻記念碑」を建立した。また、昭和二十五年(一九五〇)十月十一日官有地下戻運動から組合設立に尽力した物故者の慰霊法要が臥雲院(中条村)でおこなわれ、同三十年十月十五日にはきびしかった官有地下戻運動をしのび「下戻五十年祭」を下戻記念碑前でおこなっている。