大麻・葉藍・楮の生産

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大麻(たいま)は繊維の原料。真田藩は百姓から強制的に買い上げていた(留買)。これを特定の商人に販売させ利益を上げていた。寛永(かんえい)十五年(一六三八)には麻運上の皆済を条件に自由販売を許している(楽買)。寛文(かんぶん)十三年(一六七三)麻高は橋詰村一〇一石余(約一八立方メートル)、岩草村八四石余、大安寺村五九石余、黒沼村三五石余、古問村三〇石余、五十平村二八石余、瀬脇村二四石余である。明治三十年七二会地区の作付反別四四町歩。農閑期の女子の副業として大麻を原料に、白蚊帳(かや)(蚊帳地)、青細網(魚網)、畳糸をつくり販売していた。しかし、養蚕の発達により麻畑は桑園化し、大正十三年(一九二四)八町歩(七・九ヘクタール)と減少。昭和二十年(一九四五)終戦後は麻薬(まやく)植物の一種とされ、耕作許可がきびしくなり、昭和二十七年には一九反(一・九ヘクタール)、耕作者一八戸だけとなった。

 葉藍(はあい)は染料の原料。土尻川・犀(さい)川流域の村々では栽培が盛んであった。明治十三年七二会村は中条村についで二番目に多く、作付反別四町歩、約二千貫(約七・五トン)であった。

 楮(こうぞ)は祖山村や栃原(とちはら)村(戸隠村)の和紙の原料。おもての村(七二会・中条・小川)では畦畔(けいはん)や畑地に散植し、地蔵峠を越えて売っていた。寛政(かんせい)六年(一七九四)栃原村六ヵ村は楮の持ち込み値段が高いので、六ヵ村相談して仕入値を決めようと約束している。