養蚕の隆盛

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七二会地区の養蚕は笹平に糸市ができたころにはかなり盛んになっていただろう。明治十三年の『町村誌』によれば「女 八百四十人は農業と養蚕を生業としている」「繭一三五石(二四・四立方メートル)、生糸一〇〇貫余(約三七五キログラム)長野町へ出荷した」という。生糸は開国と同時にわが国の有力な輸出品となった。明治四十四年には収繭量は七七一石(一三九立方メートル)。大正九年に春蚕(はるご)四一五石、夏蚕一一八石、秋蚕四三八石と急増し、好景気をむかえた。しかし、昭和五年の世界恐慌によって、繭値は暴落し、つづいて第二次世界大戦となり、養蚕業は斜陽化した。戦後は再び復活し昭和四十年には養蚕戸数五二五となった。

 養蚕の盛んなころは各集落で養蚕神を祭っていた。また、大平には蚕種貯蔵の風穴(ふうけつ)があった。明治四十四年には貯蔵掃立(はきたて)枚数六四〇、上水内・長野・更埴・小県方面に送っている。


写真9 大平の風穴(滝沢譲提供)