善光寺地震

825 ~ 825

弘化四年(一八四七)三月二十四日午後一〇時ごろ、虫倉山付近を震源地とする大地震があった。七二会地区の戸数六九三、人口三六二三のところ、被害は死者一六七人、家屋は埋没(まいぼつ)二四戸、全壊(ぜんかい)三九二戸、半壊六七戸という大惨事となる。倉並村では山から幅三~四町、長さ一二~三町もの大抜けが起こり、下の方に五軒だけが残ったという。坪根村も山が抜けて家が五、六軒残っただけ。五十平(いかだいら)村は家が地割れのなかに落ちて、屋根だけが見えていたという。橋詰村の上組三〇軒は全部つぶれた。岩草村は抜けた場所が多く、つぶれた家も多かった。大安寺村はつぶれた家は少ないが、土尻川の橋が落ちて不便をしたという。笹平村は商人の家が多く、仮小屋を建てて店を開いた。瀬脇村は抜けが多く、犀(さい)川付近の田畑が流された。藩は全壊に二分、半壊には一分の手充金(てあてきん)を出している。