寺子屋と学校教育

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七二会地区は、『むしくら』(虫倉山系総合調査研究報告)によれば寺子屋数四三、師匠五七、この地方ではもっとも多い。筆塚も芸能関係をあわせると六三基、どこの集落にも一、二基はある。

 寺子屋は化政期ごろから始まって、幕末になるほど盛んになった。師匠の多くは、農業を営みながら読み書きを主に教えていた。吉沢家(平出)・矢島家(古間)・佐々木家(笹平)・小池家(滝屋)は三代とも師匠をつとめている。


写真13 寺小屋のお手本(七二会小学校提供)

 明治五年(一八七二)「学制」が発布されると、五十平(いかだいら)に仮小学校ができた。同七年三月五十平の釈迦(しゃか)堂に保興(ほこう)学校、六月には笹平の正源寺に文昇(ぶんしょう)学校、岩草の性乗寺に篤励(とくれい)学校が開校された。同十九年四月一村一校制により、笹平を本校とした尋常小学七二会学校となり、五十平・岩草は支校となった。同三十六年四月には、市場(現在地)に尋常高等小学校が開校し、笹平・五十平・岩草は分教場となった。昭和四年(一九二九)児童数は尋常科六六二、高等科一二二であった。

 昭和十二年七月に起きた日中戦争は長期化した。同十六年四月には国民学校となる。同年十一月には遠見出身の矢島環(矢島工業株式会社社長)が岩草分校を新築し寄附している。戦後の昭和二十二年四月、七二会小学校と新制の七二会中学校が発足し、一時、中条高校七二会分校も設置された。同三十九年児童数の減少にともない岩草分校が九〇年の歴史をもって閉校、同四十九年五十平分校が一〇〇年の歴史をもって閉校された。平成八年度(一九九六)七二会小学校児童数一三四、中学校生徒数九五と減少している。しかし、地域の教育を重んじる伝統的気風は根強く残っている。