武者ねりと祗園祭

829 ~ 830

守田神社では、四月二十一日(最近はこの日に近い日曜日)の例祭に、鎧(よろい)・冑(かぶと)を着けた武者が馬に乗って歩く「武者ねり」や自作自演の「武者劇」があった。この「武者ねり」は、文化九年(一八一二)守田神社の正一位昇叙を記念して始められたという。氏子七地区(古間・五十平(いかだいら)・倉並・瀬脇・橋詰・平出・坪根)が毎年交替でおこなっていた。

 祭りの日、「武者ねり」は宝船や神楽と地区内を巡回し、そのあと、神社の舞台で甲越戦川中島戦記とか、太閤記小牧山合戦・真田軍記上田合戦などの名場面を演じた「武者劇」を奉納している。最後は世話人(祭事役員)が両雄の争いのなかに割りこんで、「守田神社の祭礼につき、この勝負お預け」となって幕となる。戦後は馬もなくなったが古間区では「武者ねり」を出している。

 笹平の祇園(ぎおん)祭は、毎年七月二十一日から三十一日までおこなっている。二十一日には守田神社に合祀(ごうし)されている素盞嗚命(すさのおのみこと)(牛頭(ごず)天王)、俗に「お天王様」を伊勢社の拝殿をお仮屋(かりや)(御旅所)にして移し、お祭りとなる。毎晩夕涼みを兼ねた参拝者でにぎやかになる。とくに三十日の夜は演芸や「陣場平(じんばだいら)音頭」の踊りなどの催し物もある。翌日は天王上げといって、御神体を守田神社に移して祭りは終わる。

 祇園祭のもとは延徳(えんとく)三年(一四九一)守田神社を再興した春日大膳大夫が、領内の旱魃(かんばつ)と悪疫退散を祈って始めたという。古くは六月七日から十七日まで、春日二一ヵ村の祭りであったという。