終戦と民主化

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昭和二十年(一九四五)戦局がきびしくなった。七二会村では若い男はほとんど召集され、老人と女・こどもに病人が残って食糧増産に励み、割り当ての米・麦・大豆の供出に懸命たった。大安寺には東京府豊島区高田第三国民学校児童三八人が疎開(昭和二十年四月二十三日から同年十一月二日まで)し、笹平分教場と本校に通学していた。

 昭和二十年八月十五日、終戦となった。同年九月二十五日には守田神社で戦争終結奉告祭をおこなった。長かった「十五年戦争(アジア太平洋戦争)」が終わり、ようやく戦争のない日がきた。この間、七二会地区の戦没者は一七三人(軍人一五〇、満州開拓者二一、女子挺身隊・報国隊二)。戦後は食糧難とインフレで苦しめられた。同二十一年一月「混沌とした社会情勢を憂いて、手近な新生農村を建設しよう」と、七二会村農村建設連盟・七二会村女子青年団を結成した。同年四月十日に戦後初の総選挙がおこなわれ、はじめて婦人の参政権が認められた。同年六月現在までの復員数は四二五人(内地二五八、中国六八、インドシナ三一、その他六八)であった。また、同年十二月二十七日七二会村農地委員会が開かれた。七二会村の農地六五九・六町歩(六五四ヘクタール)、うち農地解放のための売り渡し面積は九〇・〇六町歩(八九・三ヘクタール)、一三・六パーセントであった。同二十二年五月五日には七二会小学校校庭で新憲法施行奉祝記念式をおこない、そのあと体操場で青年団主催の演芸大会があった。同二十三年二月には村内の自主的・民主的農民団体として「七二会村農業協同組合」(組合員七七八)が創立された。国民学校は小・中学校に、警防団は消防団に、学校にはPTA、村には公民館、教育委員会など新しく設立された。昭和二十九年には村民運動会や文化祭が開かれ、「民主化」を合いことばに、新生日本の郷土「七二会村」が築かれていった。