農家の暮らし

832 ~ 833

昭和四、五十年代ごろ平出(ひらいで)集落のWさんは農業協同組合に勤めていた。家族は父母と妻にこども四人の兼業農家。農繁期には日雇い人をたのんでいた。耕作地は田二反(二〇アール)、畑一町(九九アール)と家畜は馬一頭、鶏五羽。畑は桑畑二反(二〇アール)に麦と豆の輪作地約八反(八〇アール)、雑穀・野菜をわずか作っていた。反(一〇アール)当たり収量は米(籾)一〇俵、小麦三俵、大麦五俵、大豆二~三俵、小豆一~二俵程度である。収穫物のうち自家用として、うる米二石、大麦・小麦それぞれ一二俵、もち米・あわ・きび・赤もろこしなどそれぞれ二~三斗(五四リットル)確保し、残りを売っていた。一方、養蚕による収繭量は春蚕(はるご)一〇〇貫目「三七五キログラム)、夏蚕三〇貫目(一一二キログラム)、秋蚕一二〇貫目(四五〇キログラム)を売り、Wさんの月給とあわせ有力な現金収入となっていた(『聞き書長野の食事』)。


写真16 小麦の収穫 倉並にて

 このころ七二会地区の一戸平均耕作面積は水田一反、畑七反。畑の三分の二は麦畑(豆畑)、残りは桑畑と雑穀に野菜畑である。土地が肥えているためいたるところよく耕され、ほとんど傾斜畑で四割は傾斜度二五度以上である。畑のうねは等高線にそってつくられ、土砂の流れを防ぐようにし、収穫物の運搬は主に背負子(しょいこ)を使い農作業は容易でなかった。