昭和二十八年町村合併促進法が公布施行され、隣村の井上村が同三十年須坂市に合併したことが刺激となり、綿内・川田・保科三ヵ村の合併が浮上してきた。綿内村は指導的立場で合併問題を研究し、同三十一年五月、「合併と同時に町制を施行し、綿内町とすること」「新庁舎建設の場合は綿内村地籍内に建設すること」など六ヵ条からなる合併条件案を保科・川田両村に提示した。保科村、川田村でも合併条件案が提示されたが調整がつかず、けっきょく各村の合併条件案は白紙に戻された。その後、合併問題は暗礁に乗りあげたが、県の強い行政指導があり、村人の理解がえられ、昭和三十四年四月一日若穂町が発足、綿内村は町内の大字「綿内」となった。