近世において谷街道沿いの綿内村は、薪市・馬市がたち、たばこ・油・木綿・糸・繭などの商家が街屋(まちや)をつくり、人口も多かった。明治二十四年(一八九一)の綿内村は、戸数七五八戸・人口三八九一人で、若穂では最大の村であった。同三十年ごろは人口四〇〇〇人を、昭和五年(一九三〇)には四五〇〇人を超えた。
第二次世界大戦末期ごろから疎開による都市からの人口流入によって、同二十二年には人口五九五一人と激増した。
しかし、戦後の都市の復興が始まると、人口の都市への流出が始まり、長野市合併前年の同四十一年十月には五〇〇〇人台まで落ちこみ、人口の減少はつづいた。長野市合併以後は再び人口は増えはじめたが、保科・川田地区と違って団地が造成されず、市街化調整区域ということもあって戦後の人口のピークまでには回復していない。東山工業団地・中央住宅団地の造成は、この地区の産業構造を変えるばかりではなく、人口面でも激変させるものと思われる。