一 遺跡と遺物

846 ~ 847

 弥生時代中期の土器が田中に、同後期の土器が大柳(おおやなぎ)(中組・根守(ねもり)組)、古町(ふるまち)(町組・芦ノ町・牛池)に出土する。古墳は、積石系統の塚が大柳中組・清水大豆皮(まめのかわ)などに七基、土師(はじ)器は牛池(うしいけ)・岩崎(いわさき)に少量見られる。

 大柳中組遺跡は、千曲川の氾濫原(はんらんげん)を前方に置く地点で、弥生式遺跡として典型的な立地を示している。出土遺物には無頸壷(むけいつぼ)・甕(かめ)・高坏(たかつき)などがあるが、すべて弥生後期の箱清水式に属するものである。

 田中長池遺跡も大柳遺跡と同じく、千曲川氾濫原を前方にひかえた地点に立地しているが、大柳遺跡よりやや低い地点にある。昭和三十年(一九五五)に偶然の機会から発見された。遺物のなかの百瀬式壷形土器は弥生中期に属するもので、口縁は欠損しているがほぼ完全な形である。弥生後期の土器には壷・甕・鉢・高坏・片口土器などの器形がある。古町遺跡は、綿内の町組・芦ノ町・牛池にかけての千曲川自然堤防上に広がる弥生後期から平安時代の遺跡である。昭和五十四年、下水道工事にともなって平安時代の土師器・須恵(すえ)器が発見された。さらに、同五十六年には布目瓦(ぬのめがわら)が検出された。また、上信越自動車道建設工事にともなう緊急発掘調査では、平安時代より室町期にかけての住居跡と思われる榎田(えのきだ)・春山の両遺跡が検出された。


写真2 大柳古墳(『若穂の文化財』)


写真3 榎田遺跡の住居群(綿内四郎提供)