春山の峰(標高六三五メートル)にある。春山は「城ノ峰」と呼ばれている。頂上の半月形の平坦(へいたん)部は東西約二十五メートル・南北約五十メートルほどある。ここに山城が築かれ、これを挟んで幅約十五メートル・深さ約七メートルほどの二条の空堀が城跡の面影をわずかにとどめている。
この山城は、菱田・大柳集落と春山集落の間にそびえる、標高六三五メートルの城ノ峰山頂にある連郭式の山城で、鞍部(あんぶ)を隔てて南の山頂にも遺構があり、これを含めると約一キロメートル以上の遺構が残る。応安(おうあん)二年(一三六九)九月、関東管領兼信濃守護上杉朝房(ともふさ)の軍がこの城にこもり、翌年二月十日まで反守護軍と戦った。十月には守護自らこの城を経て善光寺へ出陣しており、この城は上野から信濃へ入る重要な根拠地だった。大軍が山頂の城に籠(こも)るのは困難で、春山にある館や蓮台寺付近にも布陣しただろう。
弘治(こうじ)二年(一五五六)、武田晴信方の綿内攻めに功のあった今清水六郎次郎にあてた高梨政頼(まさより)の感状に、「去る(七月)十九日、綿内要害落城のみぎり、最前にて人馬相戦はるるの条、粉骨比類無く候、自今以後に至っても別して忠信を励まるべき事簡要に候」とみえる。この綿内要害は春山城のことである。