一 神社

852 ~ 854

 小内(おうち)神社 森 ①祭神 可美摩遅命(かみまちのみこと)・健南方刀美命(たけみなかたとみのみこと)・埴安命(はにやすのみこと) ②由緒 綿内地区の産土神(うぶすながみ)で、旧郷社。伝承によると天平(てんぴょう)九年(七三七)越智泰澄(おちたいちょう)の勧請(かんじょう)で宮王の地に祭られた。永正(えいしょう)元年(一五〇四)今の地に移転した。本宮は妙徳山の山中にあって、可美摩遅命の像が安置され、越智神社と称し、『延喜式神名帳』に記載の神社であった。その後、山新田の山崎、清水の片山へ遷座し、片山神社と呼ばれた。寛延(かんえん)三年(一七五〇)現社号に改称した。明治四十年代に戸隠社・諏訪社など一二社を境内地に合祀(ごうし)した。本殿屋根の棟木(むなぎ)の両面に取りつけられている木彫り鬼面妻飾りは、鬼瓦と同じ魔除けと考えられ、神社建築では珍しい意匠という。

 蟹原神社 春山 ①祭神 健御名方命(たけみなかたのみこと) ②由緒 春山組の産土神。口碑(こうひ)によると、天文(てんぶん)元年(一五三二)以前の創立当時は、現在の如法寺のうえの小社として鎮座していた。いつごろ現在地蟹原(かにはら)に遷座したかは明らかでない。明治九年(一八七六)、現在の社号に改称した。

 諏訪社 清水 ①祭神 健御名方命 ②由緒 清水組の産土神。伝承では宝永(ほうえい)二年(一七〇五)須坂藩家老、駒津貞包(こまつさだかね)の勧請によるという。正徳(しょうとく)年間(一七一一~一六)村内に疱瘡(ほうそう)が流行した。そこで、この社頭で病根消滅の祈願祭をおこなったところ、病は消滅した。同時に、社頭の大けやきの樹皮のあいだから濃汁が流れ出し、木は枯れてしまった。けやきの木が身代わりになったといううわさは、のちに須坂藩主堀直英(なおひで)の耳にも達し、「神徳ゆえ、行く末永く保存せよ」と、神酒料が寄進されたという。現在の本殿・拝殿は明治二十三年に再建された。

 高野(こうの)神社 高野 ①祭神 健御名方命・八坂刀売命(やさかとめのみこと) ②由緒 綿内地区六ヵ区の産土神で、氏子三〇〇戸余と小内神社についで多い。伝承によると大治(だいじ)・天承(てんしょう)年間(一一二六~三二)の草創という。明治九年諏訪社から現社号に改称した。

 富士社 富士宮 ①祭神 木花開耶比売命(このはなさくやひめのみこと) ②由緒 現存する立木は三〇〇年以上の年輪を数え、改植されたものという。立ち木からおして宮の草創は永仁(えいにん)年間(一二九三~九九)ごろと地元ではいっている。

 万年島神社 野入 ①祭神 天照大神(あまてらすおおみかみ)・健御名方命・保食神(うけもちのかみ) ②由緒 その昔、万年島は犀川・千曲川に挟まれ、「中河原」と呼ばれていた。両川間に村居を分列して居住していた当時は、社は石祠(いしぼこら)であったという。万治(まんじ)年間(一六五八~六一)氏子が再興造営し、旧地名「中河原」を永久に変わらぬことを願って「万年島」と改称した。明治十年社名を地名に同じくした。同二十年、上水内郡屋島村の旧境内地から現在地に遷座した。

 宮王神社 山崎 ①祭神 健御名方命 ②由緒 山新田の産土神。伝承によると小内神社神官片山政澄(まさずみ)は宮王の地に住み、当社を崇敬していた。永正(えいしょう)年間(一五〇四~二一)ごろには宮王の地より片山(現清水)に移ってきて館を構えた。宮王の地に残る「左京池」「称宜殿(ねぎどの)山」は神官片山家のゆかりという。

 和田中(わだなか)神社 田中 ①祭神 健御名方命 ②由緒 田中組の産土神。嘉永(かえい)六年(一八五三)ごろ、当社本殿の右側にかえでの木一本と、左側に松の木一本があった。これらの木の樹齢はいずれも二、三百年前後のものと報告され、村絵図にも繁茂のようすが描かれている。これからおして当社は三、四百年以前には創建されていたと伝えている。明治九年諏訪社から現社名に改称した。