二 寺院

854 ~ 858

 蓮台寺 真言宗智山派 大柳根森 ①本尊 九品(くほん)の阿弥陀如来(あみだにょらい) ②山号 越智(おち)山九品院(くほんいん) ③由緒 この寺は「くんぶっさん」の寺として知られる。縁起によると、越智泰澄(おちたいちょう)が天平(てんぴょう)九年(七三七)九品の阿弥陀如来座像を本尊として開基したとある。泰澄は、一四歳のとき越前国越智山に上り、岩窟(がんくつ)のなかで苦行を重ね悟りを開いたという。その昔は、仁王門から本堂にいたる五〇〇メートルほどの間に七堂伽藍(がらん)、一二院があり、信仰と学問を兼ねた大寺院であったという。しかし、数度の火災で堂舎は焼失した。とくに保安(ほうあん)元年(一一二〇)には本堂が炎上し、本尊の九品仏は一体だけが焼失を免れた。この残った一体が国の重要文化財となっている。元禄(げんろく)七年(一六九四)智光(ちこう)は、京仏師を招き、焼失した八体を再造し、現在の庫裏(くり)・本堂なども再建した。

 正満寺 浄土宗 町組 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 光濃山無量院(こうのうさんむりょういん) ③由緒 寺伝によると、天文(てんぶん)二十二年(一五五三)七月の合戦で討ち死にした嫡男(ちゃくなん)、綿内正満(まさみつ)の菩提(ぼだい)のため、井上信満(のぶみつ)が弘治(こうじ)二年(一五五六)高野神社裏手にあった、浄音寺(じょうおんじ)を現在地に移し、正満寺(しょうまんじ)と称した。山号の「光濃」は旧地の縁によるという。安永(あんえい)四年(一七七五)火災にあい、同七年に再建されたが、この堂宇も嘉永(かえい)六年(一八五三)落雷によって焼失し、元治(げんじ)元年(一八六四)に再建された。昭和十三年(一九三八)また落雷によって堂舎は焼失し、仁礼の寺を移築し、再建したのが現在の堂舎である。市文化財の鐘楼門(しょうろうもん)(山門)は、元禄(一六八八~一七〇四)ごろの建造である。間口四・五メートル・奥行き三・六メートルであり、重層楼門式、入母屋屋根桟瓦葺(さんがわらぶき)で、例の少ない建造物である。


写真5 正満寺山門(市文化財)

 如法寺 曹洞宗 春山 ①本尊 釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)②山号 富春山(ふしゅんざん) ③由緒 寺伝によると、真言宗の庵として川田大門の地に創建されたが、戦乱により廃寺となっていた。天文十三年、駒沢大和守父子・滝沢能登守によって寺堂が再建され、曹洞宗の寺として月舟(げっしゅう)が開山した。寛永(かんえい)四年(一六二七)火災にあい、諸堂は灰燼(かいじん)に帰し、その後、現在地に再建した。

元禄十五年に再度焼失した。宝永(ほうえい)(一七〇四~一一)のころ善光寺再建のとき、その建築用材の割愛(かつあい)を請うて再建したのが現在の寺舎という。慶長(けいちょう)八年(一六〇三)松平忠輝の家老名で発布された制札「如法寺山・境内の草木許可なく切り取りを禁ず」の文面の木板が寺に保存されている。

 称名寺 浄土真宗束派 上町 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 水口山(みずくちさん) ③由緒 寺伝によると、承元(じょうげん)四年(一二一〇)浄貞(じょうてい)が開基したという。正嘉(しょうか)二年(一二五八)八月の「譲之事」によると、開基浄貞は水口刑部清貞(みずぐちぎょうぶきよさだ)と称し、義仲の子とある。義仲が近江国粟津(おうみのくにあわづ)ヶ原で敗死後、追討を逃れ当国へ流浪した。承元四年越後国に配流となっていた親鸞(しんらん)のもとに行き、法弟となって浄貞の法名を授けられた。親鸞は赦免(しゃめん)され常陸(ひたち)国へ下向(げこう)のとき、浄貞は随行して当国で離別し、金山(かなやま)(天王山)の麓、波羅密寺(はらみつじ)に入り、寺号を水口山称妙寺(しょうみょうじ)と号したとある。その後、永禄(えいろく)五年(一五六二)川中島合戦で兵火にあい、同七年芦原(よしはら)の地に堂舎を建立した。元和六年(一六二〇)浄印が、現在地に本堂を再建した。現在の本堂は、老朽化したため天保(てんぽう)十三年(一八四二)に改築したものという。寺内に宝善寺がある。

 善法寺 浄土真宗西派 岩崎 ①本尊 阿弥陀如来 ②山号 町田山(まちださん) ③由緒 寺伝によると、文明(ぶんめい)三年(一四七一)越後の武士、宇佐美高憲(うさみたかのり)が武士を捨て信濃にやってきた。そのときに蓮如(れんにょ)は信濃で布教中であった。蓮如の説法に深く感動した高憲は出家し、善裕(ぜんゆう)の法名と善法寺(ぜんぽうじ)の寺号を賜り、町田に庵を結んで、開基・開山となった。町田の地名をとって山号とした。その後、享保(きょうほう)年中(一七一六~三六)火災により堂舎は焼失し、無住となった寺を水災の多い町田から岩崎(いわさき)に移築した。寺内に浄玄寺(じょうげんじ)がある。

 観音寺 真言宗豊山派 菱田 ①本尊 千手観音(せんじゅかんのん) ③由緒 須坂市日滝(ひたき)、蓮生寺(れんしょうじ)の末寺。伝承によると、春山城主、富永伯耆守(とみながほうきのかみ)が開基したという。綿内満行(みつゆき)をはじめ、高梨(たかなし)・須田(すだ)・保科(ほしな)・井上(いのうえ)氏などの帰依(きえ)が厚く、七堂伽藍(がらん)の整った大寺であった。その後、大洪水と山崩れのため堂舎は倒壊・埋没し、わずかに釈迦堂と観音堂だけが残ったという。のちには、須坂藩主の信仰を得、とりわけ三代藩主堀直輝(なおてる)は、明暦(めいれき)三年(一六五七)観音堂を再建し、深くこの寺に帰依したという。

 徳正寺 浄土宗 菱田 ①本尊 阿弥陀如来 ③由緒 井上信満が持仏の地蔵菩薩を安置し、地蔵堂と称した。のち、正徳(しょうとく)二年(一七一二)綿内村宮沢彦三郎(ひこさぶろう)が善智(ぜんち)を招き、中興開山させる。

 東勝寺 曹洞宗 清水 ①本尊 聖観音菩薩 ③由緒 東勝寺は天正(てんしょう)三年(一五七五)智庵(ちあん)が開基創立したのち、大柳(おおやなぎ)に二百余年居住した豪族駒沢家の菩提寺として管理されていた。駒沢家は、歴代信仰心が厚く、初代大和守と嫡男(ちゃくなん)越後守、次男三河守は、春山の廃寺であった如法寺を開基している。また、三代季栄(すえひで)の子智光(ちこう)が、蓮台寺の住職となり、九品仏(くほんぶつ)のうちで焼失していた八体を顕像(けんぞう)、元禄七年開眼し、中興開山となった。明和(めいわ)二年(一七六五)には秀久(ひでひさ)が、東勝寺(とうしょうじ)を大改築して中興開山となっている。また、秀久は、寛政(かんせい)七年(一七九五)に大柳の阿弥陀堂の改築にあわせ、町田に宗勝庵(そうしょうあん)を再建して開山となっている。

 翌八年駒沢家は須坂に転居し、のち東勝寺は衰退し、無住の時代がつづき、如法寺(にょほうじ)に管理されていた。現在は清水(しみず)公民館として整備され、本尊の木造聖観音菩薩立像は館内に安置され、区民により供養されている。豊富な湧水に恵まれる東勝寺池は、昭和五十三年ごろまでは、綿内地区の上水道の水源となっていた。また、明治十二年(一八七九)に長野県の鮭(さけ)の養魚場が東勝寺池に設けられている。

 能念寺 浄土真宗東派 清水 ①本尊 阿弥陀如来 ③由緒 寛永三年秀念(しゅうねん)によって天台宗の寺として創立された。その後、宝永二年山新田(やましんでん)地籍に大水が出て、本堂が流失し、再建のめどが立たず、住職は帰農した。その後、嘉永(かえい)三年(一八五〇)、栄悟が本堂を再建して住職となり、浄土真宗東派に転じた。