一 領主の移り変わり

858 ~ 859

 天正(てんしょう)十年(一五八二)三月武田家滅亡後、川中島四郡を上杉景勝が領有したとき、景勝は還住(げんじゅう)していた井上信満にも本領を安堵(あんど)した。信満は安堵された所領を一族の綿内彦五郎に割いてあたえている。その後、景勝は井上(綿内)彦二郎に越後在国奉公を命じ、綿内などに所領していた地を取り上げている(『高井誌』)。慶長(けいちょう)三年(一五九八)、上杉景勝の会津転封後に、田丸直昌(ただまさ)が代わって川中島四郡を領知した。その後、同五年森忠政領、同八年松平忠輝領を経て、元和(げんな)元年(一六一五)堀直重(なおしげ)の須坂藩(一万五三石余)が成立し、綿内村は須坂藩領となり、明治二年(一八六九)の廃藩置県まで須坂藩に属した。

 松平忠輝領時代には、綿内村は蔵入地(くらいりち)(藩主の直轄地)と藩士知行地(封地)とに分けられていた。慶長十六年の「信州綿内知行割」によると、綿内村は柴主水(もんど)七〇一石、青木佐源次一五〇石余、坂部強左衛門二〇〇石、大熊佐五右衛門一五四石、近藤淡路二〇三石と蔵入地とに分知されている。

 須坂藩は、一三ヵ村(綿内・野辺(のべ)・灰野(はいの)・坂田(さかた)・小山(こやま)・須坂(すざか)・日滝(ひたき)・塩川(しおかわ)・沼目(ぬまめ)・高梨(たかなし)・八重森(やえもり)・五閑(ごかん)・小島(こじま))、一万石の小藩であった。そのため、藩成立当初から家臣は蔵入地の扶持米(ふちまい)で給された。したがって、松代藩にみられる地頭と称する藩士は存在しなかった。