村高の推移と枝村の成立

859 ~ 860

慶長(けいちょう)七年(一六〇二)の森忠政の検地で綿内村は高二九〇一石余。同九年松平忠輝の『信州四郡草山年貢帳』に三〇石の草山がある。その後新田が開発され、寛永(かんえい)十八年(一六四一)には山新田村が成立し、村高も増えた。元禄(げんろく)十五年(一七〇二)の『信濃国郷帳』に二九六七石余。天保(てんぽう)五年(一八三四)の『信濃国郷帳』に三〇七三石余。明治七年(一八七四)では、川欠高二八石余を含めた村高は三二五六石余であった(『町村誌』)。通称「綿内三千石」といわれ、高井郡最大の村であった。

 延宝(えんぽう)三年(一六七五)の「綿内村家並御改家数書帳面写留扣(ひかえ)」(綿内 塩野茂一蔵)に上町・下町・上裏町・中裏町・下裏町・古屋(ふるや)・田中・春山(はるやま)・菱田(ひしだ)・前山田・岩崎・町田・大橋・牛池・しま・森・ねもり・南太郎・九兵衛・よし・温湯(ぬるゆ)・清水(しみず)・山新田・大豆島上新田・大豆島の組名がみえ、戸数四二八軒とある。文化(ぶんか)八年(一八一一)の「正満寺時之鐘一条記」に犀川左岸の大豆島上新田・大豆島に代わって土屋坊(どやぼう)・万年島(まんねんじま)、右岸に上・中・下の万年・芦(よし)ノ町の組名がみえる。これらの組は本郷から分かれた新田村である。文化十五年、藩は「八ヵ組割地絵図」を綿内村に下付したが、開発にあてられた千曲川端は、しばしば洪水におそわれて紛乱し、開発の着手が遅れていた。弘化(こうか)二年(一八四五)には上町両組・町両組・上万年両組・中万年・下万年の八組から請書(うけしょ)をとって開発を督励(とくれい)している。