須坂藩では村方支配は、郡代(郡奉行)がおこなった。しかし、綿内村は領内の三分の一を占める大村なので、郡代配下の「綿内村取締」を設け、その支配下で、村方三役と呼ばれる名主・組頭・百姓代(長百姓)が村政にあたった。綿内村には常時三人の名主が置かれた。安政(あんせい)三年(一八五六)の「諸事願書下案留」には四人の名主名がみえる。また組頭は組数以上いた。「正満寺時之鐘一条記」には組数二二、組頭二六人が記されている。百姓代が綿内村に設けられたのは、天明(てんめい)六年(一七八六)ごろで、二人が百姓代に任命されている。この百姓代の職名は統一して用いられていたのではなく、「諸事願書下案留」には長百姓・百姓代の両職名が使われている。