村人の負担

860 ~ 861

延享(えんきょう)三年(一七四六)の綿内村の「巡見使応答書」によると、村の有高(ありだか)は二九六七石余で、このうち本田高二六六三石余、新田高二五七石余、山手高四六石余となっている。また、本田のうち五六パーセントが水田で、山手や千曲川沿岸の水利の悪いところは、畑地として利用されている。有高のうち、寛保(かんぽう)二年(一七四二)の大洪水で二八四石が水害で永荒れとなり、六八〇石が流砂入りとなったままであった。この有高以外に、四六五石余が寛永七年千曲川の流路となって流亡している。これは村の有高の一六パーセントにあたる。

 年貢率は村平均、寛保三年四〇パーセント、延享元年四二パーセント、同二年三九パーセントで、新田は年貢率二〇パーセントで、本田の半分ほどである。時代の推移とともに、川沿いや山手の取り残されていたところが開発されていったことがうかがわれる。年貢のほかに高一〇〇石につき、夫銀(ぶぎん)二八匁、真綿一〇〇目、薪一二駄、荏(え)五斗、大豆五斗を雑税として藩に納入している。また別に、高一石につき銭六〇文を村経費として高持ち百姓から徴収している。これに加え藩は、千曲川・菱川の築堤・護岸普請や往還道の管理保全の労役を命じている。また、村は独自に堰払いや、往還道の掃除区間を組々に割りつけて村人に労務を提供させた。