江戸時代は、新田の開発や産業流通経済の発展にともない、村々の利害が対立し、村の出入り(訴訟)が頻発した。綿内村の主な村出入りには、保科川の用水をめぐって対立した明暦元(めいれき)年(一六五五)と、享保(きょうほう)期(一七一六~三六)の保科村との出入りがある。また、元禄(げんろく)十年(一六九七)商い荷物の宿継ぎ問題で仁礼(にれい)宿との出入り、享保七年(一七二二)幕府訴訟状問題をめぐる「仙仁入り」一〇ヵ村の出入りなどがあげられる。
このほかに、当時としては珍しい交通事故をめぐって福島(ふくじま)宿との出入りもあった。この村出入りは享和(きょうわ)二年(一八〇二)に起きた。「福島宿・綿内村大橋組一件届」によると、綿内村製材業平八に雇われた大橋組の六、七人のものが、材木を背負って福島宿裏土手を通ったとき、松五郎の背負い荷の木尻が、野良帰りの福島宿梅三郎に当たってけがをさせた。詫びに行った平八の息子を福島宿で拘留したところから村出入りになった。下高田村(松代藩)利兵衛、須坂村(須坂藩)清三郎が和談扱い人になった。綿内村は、梅三郎が故意に突き当たって自分でけがをしたものだ。理不尽ないいがかりだ。事故の責任はすべてけが人梅三郎にあると主張している。福島宿では、福島宿松蔵方へ平八の息子が駆けこんで、「松五郎は私方で雇い入れたもの、そのほうの御取りなしでお詫び下され。自分が松五郎の身代わりになるのでよろしく頼む」といったので身代わりとして拘留したまでのものと、双方の主張は対立したままだった。結局和談は不成立におわり、両藩の裁許に持ちこまれた。