明暦元年(一六五五)、保科・綿内両村のあいだに起きた保科川水利権争いの幕府裁決は、保科川の用水使用を上堰・下堰制とし、上堰は保科二昼夜・綿内一昼夜、下堰はその反対の番水とし、三日で一巡とした。貞享(じょうきょう)二年(一六八五)再び水論となり、綿内村は幕府に目安(訴状)を提出した。翌三年の正月に明暦当時の基準を配水基準とした幕府の裁決が下った。このときの「綿内村目安」(宮沢綾子蔵)に、保科村は前まえの規定があるにもかかわらず七月、両堰をせき止め、用水を少しも流さない。そのため、田地七〇〇石余が干ばつになり、人馬の飲用水にもこと欠いている。綿内村が番水日なので止め板を払いに行ったが、保科村では前もって、ほら貝を吹き、鐘をならして村人や近郷のものども(小出・東川田)を大勢かり集めて警備していたので、綿内も大勢押しかけたが、堰口を払うこともできず撤退したとある。その後、文化(ぶんか)十一年(一八一四)をはじめ、しばしば水争いは起きたが、そのつど明暦・貞享の幕府裁決が配水基準となった。