仁礼宿との出入り

863 ~ 864

仁礼(にれい)宿(現須坂市)は、北国脇街道松代通り福島宿で分岐して「なぬり峠」を越し、上州大笹(おおざさ)を経て大戸(おおど)・高崎へと向かう大笹街道の宿場で、松代藩の口留(くちどめ)番所が関谷(せきや)・浅間塚(現須坂市仁礼)に置かれた。綿内村から大笹に行くには、保科道は大笹街道より八キロメートルほど短縮される。駄賃荷物の増加にともない、保科道に近い村の荷物は仁礼宿を継がず、保科道を中馬・手馬などで直接大笹宿へ運ばれた。元禄(げんろく)九年(一六九六)九月、綿内村彦三郎の酒荷六〇駄が、途中待ち構えていた仁礼宿のものによって差し押さえられた。綿内村は、仁礼宿の非を松代藩に訴え出たが取り上げられず、幕府へ目安訴状した。翌十年十二月、「綿内村百姓が訴えるところは理にあっている。今後、先規のとおり保科道を往還してよい。仙仁村百姓はこれを妨げてはならない。仙仁村の百姓の非分を押さえなかった罰として庄屋は牢舎とする」旨の裁決が下り、綿内村は勝訴した。