二 交通

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 北国脇(わき)街道の川田宿と福島宿のほぼ中間点に位置する綿内町組には、繭・糸・木綿・煙草(たばこ)・穀物の仲買商人や酒造業など営む家が多く、街屋(まちや)をつくり、近隣の農産物の集散地であった。「綿内村作間稼馬数書上」によると、安永(あんえい)二年(一七七三)には農馬が一五匹いて、農業の暇をみては越後高田・上州大笹・信州上田に産物をつけ送りしている。延享(えんきょう)三年(一七四六)、綿内から川田宿まで駄賃は本馬(ほんま)(荷四〇貫=一五〇キログラム)二九文五分、軽尻(かるじり)(一人と荷五貫)二〇文、人足賃銭一五文であった(「巡見使応答手引書」)。

 千曲川通船は寛政(かんせい)二年(一七九〇)、西大滝(飯山市)から福島宿まで西大滝村の太左衛門船が認可された。同七年六月、綿内村でも折之丞・要七が連名で、河岸場(かしば)一ヵ所・富士川船五艘(そう)の通船を願い出ている。天保(てんぽう)十四年(一八四三)の「通船諸荷物運賃附」によると、飯山から綿内までの運賃は塩・米穀一駄につき三四八文、諸荷物四〇〇文とあり、綿内村積問屋助次郎の名がみえる。元治(げんじ)元年(一八六四)の西大滝河岸(かし)から綿内河岸までの通船上り荷物新運賃(四月八日より十月八日まで、この期間以外は一割増し)は、塩一駄九〇〇文、穀・粕・粉糠(こぬか)一駄八〇〇文、蠟(ろう)一箇四〇〇文、白砂糖一樽四〇〇文、玉砂糖一樽五三二文、鉄物(かなもの)・肴(さかな)類・昆布(こんぶ)一箇(こおり)三六四文、諸荷物三六四文。下り荷はその二割減と定めている。

 千曲川就航の通船は長さ一九・四メートル・幅約三メートル。乗員は六人(船頭丁舳竿(へさきざお)一・綱手(つなで)四)で、急流をさかのぼるときは綱手が引っ張った。綱手が水勢に押し流されて命を失う事故も発生した。天保十五年六月十二日昼過ぎごろ、西大滝村太左衛門船が広田(ひろだ)村(長野市稲里町)儀十郎の荷物を積みこみ、綱手五人で綿内村庚申塔(こうしんとう)まで引っ張ってきた。このとき南風が強く吹いて、綱手たちは水中深いところへ引きもどされた。四人は川岸にはい上がることはできたが、一人は水死したのか行方不明になったと、綿内村から藩に届けている(『諸事願書下案控』)。