天保の大飢饉

868 ~ 869

天保(てんぽう)七年は天候不順・冷害に加え、再三にわたる台風の被害が重なって大凶作となった。慢性的な飢饉(ききん)のうえに大凶作であったため、暮れから翌八年の穫(と)れ秋にかけ全国的大飢饉になった。綿内村も例外ではなかった。

 前山田の観音寺は無檀家であったが、高三石の寺有地があり、毎年小作人が納める年貢籾(もみ)九俵で暮らしていた。しかし、大凶作で小作籾は寺に入ってこなかった。食べるに窮した住職は、同八年二月、「当節夫喰(ふじき)に差し支え難渋仕り候間、郷中托鉢(たくはつ)仕りたく存じ奉り候えども一統困窮ゆえ、これもってできかね迷惑仕り候」と籾三俵の拝借を藩に願い出ている(「諸事願書控帳」)。

 盗難も頻発し、米櫃(びつ)に残っていたわずかな米までも盗まれた。古屋組では同年五月四日に古布団・四升炊き鍋(なべ)など一四点が盗まれた。そのなかに白米一升(一・八リットル)・大豆五合も入っていた。つづいて七日には温湯組で絹空色紋付綿入など高価な衣類ばかり一四点と白米八升が盗まれた。六月に入って十日、岩崎組で弁慶縞(べんけいじま)単衣(ひとえ)など衣類中心に白米二升を含め二〇点の盗難にあっている。綿内村は天保七年十月から翌年八月にかけて六件の盗難事件を藩に届けている。また、控帳には「生国不詳、乞食躰の者」で始まる綿内地内で命を落とした行き倒れ人の届書五通がある。二月十日芦町往来筋で病死していた五〇年配の男の持ち物は、「きせるたばこいれ一・すげ笠一・小たす一・麻袋一・木綿袋一・銭十三文・もんは頭巾一・粟挽割一合」であった。「小たす」のなかには、わさび一把と、しゃくし一本が入っていた。この男は、銭と粟挽(あわひ)き割が残っていたが、ほかの四人は銭も食べ物もなく、着のみ着のままの状態で命が絶えている。また、江戸の「お助け小屋」に収容された綿内村の親子三人の身元調査書、極貧の未亡人二人の剃髪(ていはつ)願い、口減らしとも思われるこども二人の寺弟子入り願書などに、綿内村の天保の大飢饉をおしはかることができよう。