弘化(こうか)四年(一八四七)三月二十四日の善光寺地震で岩倉山は崩壊し、犀川は二〇日間にわたってせき止められていた。四月十三日せき止め箇所が決壊して犀川大洪水となった。水の一手は、牛島から川田・綿内間の土手を押し切り、綿内村南部から北部に抜け大水害になった。水害を免れたのは枝村二七ヵ村のうち二ヵ村のみという(『須坂藩国史』)。家数七〇〇軒余のうち、水入り五〇〇軒ほど、流失一五軒、土屋坊組で親子三人が流死した。須坂藩では炊き出しをおこなうとともに、罹災(りさい)者に対し、「家屋流出・全潰二両三分二朱、水入半潰二両、水入難渋者一両、水入二分」の手当金、親子三人水死した遺族には弔意金七両二分を給した(『むしくら日記』)。