綿内村の俳壇は、中央に出て名をなした文政(ぶんせい)・天保(てんぽう)期(一八一八~四四)の桃洞(とうどう)をはじめ、三〇人余の俳人が『長野県俳人名大辞典』にも掲載されているほど活気を呈していた。とりわけ、宮本虎杖(こじょう)の俳友、東林(とうりん)・稲花(とうか)、その門人雪棹(せつとう)(『俳人宮本虎杖』)や、宮沢武曰(ぶえつ)門下の則古(そくこ)・井中(せいちゅう)・蝶二(ちょうじ)・梅好(ばいこう)らの輩出した文化・文政期(一八〇四~三〇)は綿内俳壇がもっとも充実していた時代といえよう。この綿内俳壇の先駆的役割をになったのが、金秋(きんしゅう)や三思(さんし)・雪棹(せつとう)であったと思われる。金秋の句「姨捨の月や夢かと思れて」は『姨捨とはず草』(宝暦(ほうれき)三年刊)に収録されている。三思は加舎白雄(かやしらお)門人で、『松露庵歳旦』(明和(めいわ)八年刊)に「万歳や柱の数をくりかへし」の句が、また、雪棹の「花にさめて花より笑ふ童哉」の句は『しののめ』(寛政(かんせい)十一年刊)にそれぞれ載せられている。
文化・文政期にはいると『木槿(むくげ)集』(文化九年刊)に桂子(けいし)の句、『雁の使』(文政七年刊)に桂子・好月(こうげつ)・士芳(しほう)の句、『新撰水篶(みすず)集』(文政十年刊)に岩松(がんしょう)・井中(せいちゅう)の句が採録されている。また、『俳諧百世草』(木兎舎赤山編・文政十年刊)は枕山(ちんざん)が主催し、梅兆(ばいちょう)が大補をつとめている。この『百世草』には前者のほかに秀峰(しゅうほう)・春梅(しゅんばい)の句もみえる。宮沢武曰の春興帖『続こまつびき集』(文政十年刊)には亀月(きげつ)・曲川(きょくせん)・守一(しゅいち)・寿年(じゅねん)・則古(そくこ)・丼中(たんちゅう)・蝶二(ちょうじ)・梅好(ばいこう)らの句がある。明治期にはいると『花廼滴(はなのしずく)』(明治十五年刊)に幸学(こうがく)・梅光(ばいこう)・梅鳥(ばいちょう)・福斎(ふくさい)、『信濃明治俳家集』(明治三十年刊)には一潮(いっちょう)・寿仙(じゅせん)・望月(ぼうげつ)らの句が記載されている。
片山桃洞(とうどう)は森の小内(おうち)神社の神主の家に生まれ、蘇鉄庵(そてつあん)と号した。江戸に出て、山口桃隣(とうりん)に師事し、文政から天保にかけて業俳として知られた。諸国行脚ののち、文政元年夏、小県郡田中(東部町)に庵を結び、同地の俳壇を指導した。開庵記念に『露のたま葛』を刊行した。同四年八月十二日に一茶に書簡を送ったことが一茶『随斎筆記』にみえる。文政なかば再び江戸に出、蘇鉄庵(四世)および桃隣(六世)を名のった。信州から中央(江戸)に出て名をなした俳人の一人である。宮沢武曰編の『俳諧夜のはしら』(文政二年刊)に「啼(なく)蛙外山の月に顔あげて」の句がある。兄の片山政亮(まさすけ)も俳句をよくし、和久井(わくい)と号した(『長野県俳人名大辞典』)。