明治五年(一八七二)学制が公布されると、同七年二月に第一五中学区第二三番小学校敬義(けいぎ)学校が、菱田(ひしだ)の徳正寺を仮校舎として開校した。翌八年岩崎(現綿内小学校)に校舎が新築された。同十九年小学校令が公布され、敬義学校は尋常科四年制の綿内尋常小学校と改称し、上高井郡(全町村組合立)高等小学校綿内分教場が併設された。同二十二年七月に山新田分教場が設置された。同二十四年綿内・保科組合立高等小学校が設立され、郡の高等小学校は廃止された。同二十六年保科小学校に高等科が併設されると学校組合は解散し、村立綿内尋常高等小学校と改称した。
明治十二年ごろから在籍児童数は増加してきてはいたが、同二十五年の就学率は、男子六八パーセント、女子二七パーセントで、女子の就学率は男子に比べきわめて低かった。女子の就学率が過半数に達したのは三十年代に入ってからである。男女の就学率は明治四十年代には九〇パーセントを超え、平均就学率九六パーセントで大正時代を迎えた。このときの川田小学校・保科小学校はともに九九パーセントの就学率であった(『上局井郡誌』)。