一 大戦と綿内村

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 日中戦争・太平洋戦争は多くの尊い命を村から奪った。綿内村「戦没者台帳」によると、西南戦争一人、日露戦争六人、日中戦争が始まった昭和十二年(一九三七)から太平洋戦争が始まるまでに一二人が戦死した。太平洋戦争では一七五人が陣没している(区長会調べ)。

 大都市への空襲が激しくなるにしたがって縁故疎開者が増え、昭和二十年四月には東京府足立区立柳原国民学校の疎開児童四七人(最終的には七五人)が、春山の如法寺に疎開し、十一月のはじめ帰京していった。

 終戦とともに在外邦人の帰国が始まった。綿内村では同年十月朝鮮から一家族五人が引き揚げてきたのをはじめとして、同二十三年十一月満州信濃村第七次開拓団員の単身引き揚げを最後に、一九二人の在外村民が引き揚げてきた。旧綿内村役場文書「在外邦人引揚名簿」によると、引揚げ者は「満州九三人(一五家族・単身三四)、朝鮮五六人(一二家族・単身二)、中・北支三四人(八家族・単身五)、台湾二家族八人、カラフト一人」であった。満州を除く中国と朝鮮からは家族単位の引き揚げ者が多く、帰国も終戦の翌年五月ごろには終わった。その後は開拓団、義勇軍として渡満した村民の引き揚げがあいついだ。単身引き揚げ者の多くは、満州上高井郷建設の報国農場隊員や、満蒙(まんもう)開拓義勇軍として村民が日の丸を振って送った青少年たちであった。ソ連軍の襲撃を受け、退避する途中、集団自決の悲劇を生んだ満州信濃村から、単身で綿内にたどり着いたもののなかには、一五歳の少女、妻子を失った男性、夫と子を失った女性の名もみえる。