農業の推移

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明治のはじめごろの綿内地区の耕地は、五七〇ヘクタール余、その七割が畑であった(『長野県町村誌』)。換金作物として千曲川自然堤防付近では、綿花・菜種、山新田の傾斜地などでは、葉タバコの栽培が盛んであった。

 養蚕業は、明治初期ごろは蚕種一万枚・繭二二〇〇貫(八・三トン)。梨一六○○貫(六トン)は長野・須坂に移出していた(『県町村誌』)。日清・日露の戦勝の好景気で養蚕はさかんになり、昭和四年(一九二九)には綿内地区の桑園は畑地の八五パーセントを占めるまでになった。昭和初期の恐慌を境に、桑園がりんごなどの果樹へと改植されるようになったが、終戦後しばらくまでは養蚕はこの地区の中心的な農業であった。

 昭和四年の果樹園は、一ヘクタールであった。昭和初期の恐慌を境に樹園地はしだいに増えていったが、終戦ごろは、二〇ヘクタールで、まだ養蚕が中心であった。同二十三年作付け制限が撤廃されると、桑はりんごに改植され、同三十八年には未成木園を含め二五七ヘクタール、畑地作付け率は八〇パーセントを超えた。その後は、りんご価格の低迷や高齢化、他産業への就労者が増加するにしたがって、りんご栽培は敬遠され、平成六年(一九九四)の総果樹園は一七四ヘクタールに減少した(市統計書)。

 江戸時代から温湯(ぬるゆ)温泉付近の沼田は、「蓮田」として利用され、蓮根が栽培されている。昭和九年の栽培面積は、一九ヘクタール余、生産額は一六三トン余、県生産の七割以上を占め、「綿内蓮根」として県外にも出荷されていた。三十年ごろは病害のため地区内の栽培面積は三分の一以下となり、栽培農家は、松代町清野、須坂市豊洲(とよす)、小布施町都住(つすみ)から木島平まで出作りして蓮根を栽培していた。今は地元や温泉みやげの需要を満たす程度になってしまった。観光面で「蓮田」の復活をという声もある。


写真8 綿内蓮根として、嗜好されている温湯の蓮田 (『若穂の民俗』)