綿内地区の水田灌漑(かんがい)は、保科川・千曲川から取水する小田堰、清水・大柳の湧泉(ゆうせん)を利用する東勝寺堰に頼っていた。昭和三年(一九二八)千曲川から電気揚水をおこない、田中前・小田堰約百十ヘクタールの水田を灌漑した。保科川の水はため池に入れて、補充的に使った。同二十九年土地改良事業の一環として揚水工事施設を改修し、冷温湧泉灌漑を解消した。この結果、鉱毒のある保科川の水は利用しなくなり、保科村と水利権をめぐって争ったきびしい水利慣行は失われた。
水利慣行の変化
綿内地区の水田灌漑(かんがい)は、保科川・千曲川から取水する小田堰、清水・大柳の湧泉(ゆうせん)を利用する東勝寺堰に頼っていた。昭和三年(一九二八)千曲川から電気揚水をおこない、田中前・小田堰約百十ヘクタールの水田を灌漑した。保科川の水はため池に入れて、補充的に使った。同二十九年土地改良事業の一環として揚水工事施設を改修し、冷温湧泉灌漑を解消した。この結果、鉱毒のある保科川の水は利用しなくなり、保科村と水利権をめぐって争ったきびしい水利慣行は失われた。